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9祖父の代から続くアサヤとの関わり「アサヤさんは、物心がついた時から隣にいたね。」と語る畠山さん。今はホタテの養殖を主体に取り組んでいるが、昔はカキの養殖の比重が大きかった。「僕が小学生の頃は、養殖ってまだ家内工業だったの。学校から帰ってくると仕事を手伝わされるんだよね。僕の担当は『箱折り』っていう、カキを出荷する時に使うダンボールを折る作業。出荷シーズンになると2〜3千枚とあるの。次はカキを詰めた箱にシールを貼る作業。これも同じ数貼るもんだから、もう家族だけじゃ賄いきれなくて。アサヤさんには包装資材を卸してもらっていたんだけど、箱折りもやってくれないか、と仕事をお願いしたんだよね。」「その日の出荷数を予想して、アサヤさんにシール貼ってもらって。今度は自分たちのところまで持ってきてもらうの。それでも全然終わらなくて、当時は朝から晩までずーっと作業なんてのが当たり前。包装資材部門も、うちの発注だけでフル回転だったみたいだよ。」その後、進学で畠山さんは一度気仙沼を離れるが、家業を継ぐため20年前に再び戻ってきた。カキ養殖に立ちはだかった壁と「元祖・ホタテ屋」復活「気仙沼に戻ってきたら、殻付きカキがカキ養殖のメインになってたの。しかも宮城で出荷してたのは、自分のところぐらい。ちょっとした独占企業だよね。築地市場にあがるカキの1割位を占めてたこともあったらしい。」しかし、そう長く続かない。「三陸以外の産地が増えて。うちのシェアが落ちていったの。そこにノロウイルスがカキから発生することが判明してトドメを刺されたね。」漁協が出した対策は加熱用販売に向けた加工。ところが畠山家が養殖する殻付きカキは、加熱用販売が難しいという問題があった。「『もうカキはどうしようもないな』って結論になって、いろいろ悩んだの。その時に思い浮かんだのがホタテ養殖だったんだよね。うちが『元祖・ホタテ屋』だったというのが大きいんだけどさ。」カキの養殖家なのに『元祖・ホタテ屋』。一体どういうことなのか。「うちは宮城県で一番最初にホタテ養殖に取り組んだところなの。ただ、うちの主力はカキだったからホタテは細々としかしてなかった。でもノロウイルスの件と、家業が自分の代になったこともあって、ホタテ養殖にも力を入れることにしたんだ。必要な資材をどこに頼もうか考えていた時、頭に浮かんだのがアサヤさんだったの。」畠山さんは「第2次アサヤ」と呼んでいる。「それまでやってきたのは、手作業でコツコツやるローテクなもの。でも、石巻の養殖はまったく新しい方式だった。北海道から大量に買い付けた種を一気に養殖する『耳吊り養殖』をしてたんだ。まず数の多さに圧倒されたね。元祖・ホタテ屋と言いながら機械の技術が遅れていることにも気付かされた。『うちもこれからは耳吊りだ』って思った。でも、資材も知識も全然ない。アサヤさんに教えてもらいながら始めることになったんだ。」これが畠山さんとアサヤのホタテ物語の始まり。養殖部門

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