14夏の台風。冬の台湾坊主「平成28年の夏に来た台風もすごかった。波の高さは震災の津波以上かもしれないって言う仲間もいるよ。」まるで海の中をかき回すようにやって来た台風10号。「通り過ぎた後は、ここ一帯が砂利だらけ。震災後に引き上げた瓦礫も、また海に流れ出た。網にもいろいろ引っかかったから、ひとつひとつ外してったよ。この台風で震災の時、海に流れたものが、また動き出した感覚がある。5〜10年はシケのたびに注意が必要だな。あと、冬になると台湾坊主が来る。台風が終わっても気は抜けねぇよ。」台湾坊主とはクリスマスから1月にかけて猛烈に発達する熱帯低気圧のこと。東シナ海で発生して三陸のあたりで大きくなり、暴風雨を引き起こすことも。「天候を読んで行動するのが一番大変。網の交換の時期にシケが来たら、3日間は魚が揚げられねぇんだもの。かなり慎重になる。その間に他の漁場で大漁があったなんて聞いた時には『あぁ、失敗したな』ってなるね。」ライバルが急増したときも、漁師との信頼関係は揺るがなかった大槻網さんが扱う漁具のほとんどがアサヤから仕入れたもの。しかし、あぐらをかいてはいられないと吉田は言う。「昭和の終わり頃には『鮭バブル』と呼ばれる時期がありまして。その頃は、このあたりの漁場だけでも1年で5、6億ぐらいの売上がありました。漁師さんも今では考えられないくらい羽振りがよかった。網をどんどん買うし、大型機械の交換時期と重なっていたので機械もよく買っていた。日本全国の網屋が営業に来てましたよ。」しかし大槻網さんはアサヤから資材を仕入れ続けた。「うちは三陸の漁業に携わり続けてきたから、地元の漁師さんにとっては他の業者と付き合うよりも楽なんだと思います。機械のメンテナンスにも対応できるから、付き合いがとぎれなかったのもしれません。これまで何十年と続いてきた付き合いは、全部先輩たちがつくり上げてきたもの。私の代で歴史を終わらせるわけにはいかないっていうのはずっとありますね。」先輩の背中、漁師の背中を吉田は見続けてきた。「漁師さんは漁だけじゃなく、毎日、網を洗浄したり修理したり。大漁するために多くの時間を費やしているんです。その姿を間近に見続けてきた。だからこそ『おたくの漁具で大漁になったわ。おかげさん』と言ってもらえた時は自分ごとのようにうれしくなります。」台風などで切れてしまった網は、前の形と同じように撚う「キソリ」という作業が施される。キソリは漁師の仕事だが、漁の繁忙期ではアサヤ社員が担当する。熊谷 範人大槻網有限会社代表取締役。震災後、株主が半数辞めるという危機を乗り越え、残った4人の仲間と共に再起する。前職は氷屋。吉田 孝昭和58年アサヤ入社。越喜来工場、大船渡営業所での勤務を経て、現在、気仙沼本社 営業2部 部長。定置網漁を行う人にとっては道具が命。大槻網さんからは、よく「何も心配しなくていいから、資材をどんどん持ってきてくれ」と言われることがあるそう。
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