36創業当初の商号は「廣野屋」だったが、麻を売っていたことから、漁師からも「アサヤさん」と呼ばれるようになり、いつの間にか商号も「麻屋」になったという。明治に入ると、商売は創業者である初代太兵衛の長男である彦兵衛(二代目太兵衛)が一手に引き受けるようになる。彦兵衛はとにかく漁具をよく研究し、工夫を重ねた。非常に商売熱心で、アサヤの基礎を築いていった。「廣野屋」から「アサヤ」へ「ハリガネ」の語源とアサヤ明治8年、彦兵衛は、東京の鉄材商である森岡商店がイギリスから鉄線を輸入したことを聞きつけた。「鉄線なら漁師が簡単に釣針をつくることができる。これはいける」と思い立ち、さっそく東京へ旅立った。東京まではおよそ400㎞。往復するだけで20日もかかった。やっとの思いで東京に着き、鉄線をどっさりと買い込むと、すぐに気仙沼にとんぼ帰り。釣針用としてこの鉄線を漁師たちに売った。すると、「針金があれば、カツオ、メヌケが大漁のときも釣針がすぐつくれる。今までは鍛冶屋で針ができるのを待っていたが、これで漁を休んでいることもなくなる」と予想外の反響があった。「いい釣針がある」と噂になり、各地から鉄線を求めに漁師が足を運ぶように。一躍「麻屋(アサヤ)」の名が三陸沿岸にとどろいた。当時、彦兵衛がこの鉄線を「ハリガネ」と呼んでいたという資料が残されている。いま、私たちが普段使っている言葉「ハリガネ」の名付けの親は実は彦兵衛だったのかもしれない。明治時代が明治から大正に変わる頃になると、釣糸が麻糸から綿糸に変わり、漁網も綿糸網に。また、石油発動機を備えた動力船も入ってくることになり、本格的な沿岸漁業の夜明けを迎えた。日本固有の木造船である和船で漁を行なっていた時代は、漁の時期にカツオ漁で1万尾以上獲れることはまれ。それがあると「万祝い」というお祝いをしたほどなのだが、動力船が本格的に導入されるようになると、「万祝い」となる1万尾は軽々と超え、漁獲量が年々記録更新されることに。動力船が増えるにしたがって、アサヤでも自然とさまざまな船具を扱うようになっていった。本格的な沿岸漁業の夜明け1912年1926年〜1868年1912年〜大正( )( )1912
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