37昭和50年代、日本漁業にとって大きな転換の時代を迎える。昭和48年、第4次中東戦争をきっかけに、石油の価格が一気に値上がりした。オイルショックである。それは漁業にとっても他人事ではなかった。漁船用の燃油の価格も高騰。燃油がなければ操業のできない漁船にとって、大打撃となり、倒産、撤退、再編成を余儀なくされた。そして、追い打ちをかけるように、「200海里時代」がやってくる。自国の管理を200海里まで広げ、その中での資源・水産物などは自分の国のもの、つまり、「排他的経済水域」として、確保することになり、相手国の200海里水域内で操業するには許可が必要になったのだ。遠洋漁業への影響は大きく、事業の縮小、統合、減船など、危機を乗り越えるための対策が相次いで行なわれた。気仙沼でもマグロ漁船が締め出しを食らって衰退していき、マグロ漁業に関係する業者が次々と倒産していった。戦後最盛期で130隻近くあった遠洋マグロ漁船も、どんどんと減り、いまでは10隻程度になってしまった。気仙沼のマグロ漁業の発展とともに歩んできたアサヤも当然あおりを受けた。日本の漁業も、世界の漁業も、これをきっかけに、資源管理型の漁業へと、次第にその歩みを進めることになる。昭和昭和20年、日本とアメリカの間で、日本の無条件降伏の調印が行なわれた。一切の船舶の航行が禁止され、漁船で漁に出ることも当然できなくなる。ただ、その後すぐに12海里以内なら航行が許可されることに。「マッカーサー・ライン」の設定である。ただこの規制は徐々に緩和され、昭和27年の日米安全保障条約の調印によって、撤廃された。それを機に、待望となる遠洋への船出が可能となり、次々と漁場を拡大していった。昭和50年には、世界の総漁獲量の7分の1を占めるまでに発展していく。気仙沼もマグロ漁業の基地として発展。その恩恵を受けるかたちでアサヤも商売を順調に拡大していった。衣料に使われる素材を漁網にオイルショック・200海里問題戦後、花開く遠洋マグロ漁業昭和27年、アメリカから新しく開発された化学繊維ナイロンが日本にやってきた。アメリカでは、すでに靴下のストッキングに使われるようになっていた。麻屋四代目廣野善兵衛はつながりのあった貿易商の伝手を通じて、化学繊維メーカー東洋レーヨン(現東レ株式会社)にコンタクトをとり、ナイロンを漁網に使えないか交渉した。同社の重役が善兵衛の熱意に感動し、製造したナイロンの一部を漁網用とした。麻屋はそれを買い入れ、網に使用することになる。その年、早速ある船でナイロン製の網を使った漁が行なわれた。だが、網が軽く、からまってしまい、せっかく探し当てたマグロの大群を逃してしまった。善兵衛は、思い切ってナイロン網をタールで染め重くすることで、問題を克服。その年、同船は大漁となった。ナイロン糸の価格は綿糸の3倍もしたが、売上げは飛躍的に伸びた。1926年1989年〜( )1945
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