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39(   )震災3.2011年11震災直後、当時魚市場前にあった本社から、現社長の浩は常務や数名の社員とともに、魚市場の屋上へと避難した。大きな津波が何度も押し寄せ、本社の社屋や倉庫は倒壊し、商品や設備も流されていった。一時避難した魚市場の屋上から倒壊した本社を呆然と眺めていたが、「明日から会社をやろう。マイナ立ち上がる漁師走り回るアサヤスからの出発だ」と声にした。「(会社を)潰してはダメだ。漁師さんが立ち上がるなら、アサヤも立ち上がらなくてはならない。アサヤにできる仕事があるはずだ。」こう心にも誓った。しかし、現実には社員の行方は分からず、携帯電話も通じない。とにかく、松川の工場(現在の本社)を拠点にすることだけを決め、人伝いに会った社員に声をかけていった。3日後ぐらいから徐々に社員が集まり始めた。通信が回復すると、宮古の漁協から大量の注文が来ているがどうしましょうか、という相談が入った。漁協の職員が自宅まで訪れ、資材を何とかしてくれと直接頼まれた社員もいた。この流れはいよいよ全支店に広がる。入ってくる注文は迷わず受けていったが、実際問題、こんな大量の注文をメーカーがこなせるかどうかまでは頭が回っていなかった。三陸があれだけ津波で被害を受けたのに、こんなに大量の注文が来るはずがない、と信じてくれないところもあった。何度も何度も現状を説明し続け、やっと信じてもらえたという会社もあった。当時は何とか三陸の皆様の役に立ちたい、その思いだけだった。人様の役に立つ仕事をするというのが創業以来、代々先輩から後輩へと受け継がれてきたアサヤの働き方。どんなことがあっても漁業家を助けなければならない。思い返せば、昔から津波やシケに見舞われながらも、その度ごとに三陸の漁業家たちは立ち上がってきた。だから、アサヤはそれを全力でサポートすると決めた。震災から3年間は想像を絶する忙しさ。日の出から日の入りまでみんな毎日毎日走り回った。お客さんの顔を見ながら仕事をしているから、自然と馬力が働く。不思議と誰一人として倒れたり、病気をしたりするものはいなかった。ワカメ漁業で使うロープに浮球、ワカメボイル釜やホタテ漁業で使う機器など。復興に向け、あらゆる資材・機器の確保に尽力いただいたことはいまでも忘れることができません。アサヤさんは、我々にとってなくてはならない存在です。宮城県漁業協同組合歌津支所 支所長阿部 美津雄さん2011

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