41一緒に力を合わせ、一緒にがんばり、一緒に笑った。社員も、家族もみんなでひとつの家族のような時代があった。昭和24年19歳で廣野家に嫁ぐ。育ての親はしずえおばあちゃん。生みの親からは「おまえのことは何の心配もしてない」と言われるくらいのしっかり者。廣野 孝子みんな一緒に働いて、一緒にご飯食べて、一緒に遊んで。大家族のようでした。インタビュー 昭和30年代のアサヤの日常。昭和24年、廣野家に19歳で嫁いできた孝子。「朝4時ごろから船の方が『いまから船が出るから、これちょうだい』って来られるんです。まだ社員さんも誰もきていないので、私が帳面つけて対応して。社員さんが出てくるまでは、私の役割でしたね。お客さんの船の名前を覚えるのも大変で。屋号と船の名前も違うし。」大姉はん(おあねはん)と呼ばれていた姑のしずえは、躾には特に厳しかったという。「こっちのお母さんが躾の親みたいな感じでした。あんなにはっきりとした言い方で教えてくれる人はいなかった。厳しいだけじゃなくて、愛情を持って接してくれていました。いろいろ教わりましたね。社員さんも『みんな蔵の中にばっかりいないで、さっさと表に出てお客さんのお相手しなさい』とおあねはんに言われると、蔵からぞろぞろと出てきたものです。」昭和30年代のこと。表がお店で、裏が自宅だった。奥には蔵、倉庫が二つあり、会社と家がすべて一体化していた。「お昼にサンマとか、カツオが出てきて。魚なんて触ったこともなかったけど、『覚えなさい!』と言われて。隣のおばさんのところにいって教えてもらったりしました。みんなにごちそうしなきゃって。社員さんが持ってくるのは白飯だけ。おかずはお手伝いさんのおばちゃんがいたので、こちらで用意して。当時は、社員さんと一緒にご飯を食べてましたね。晦日に社員さんにお酒と漬け物を出すっていうのもあって。それを楽しみにしている人もいました。染め工場があったときは、家族で住み込みで働いてくれている社員さんもいて、大晦日には餅つきを一緒にやったり、いろんな行事とかも一緒にやったり。当時は、社員も家族も大家族みたいな感じでしたね。」 仕事の厳しさが生んだ連帯感。アサヤの社員は昔からよく働いた。いつも長靴をはいて、走り回っていたという。「仕事は大変だったと思います。でも、厳しいだけではなくて、和気あいあいとした雰囲気もありました。漁船部門なんかは、朝忙しいけど、15時16時ごろになると時間にゆとりが出てきて、会社の中でちょっと休憩しながら、みんなで雑談してから帰るのが日常でしたね。春になると、『今日は昼からお花見に行こうか』とか、海水浴に行く日があったりとか。漁船がでている間はお客さんとも遊んだりしてたみたい。『アサヤが来たぞ』って、2、3時間雑談したり、倉庫でかくれんぼしたりもしていたとか。当時は、野球部があって結構強くて。県大会で一週間会社を休んで遠征に出かけたりもしてましたよ。厳しい分、みんなの連帯感も強かったのかもしれない。」今でも引退した社員が廣野家を訪れ、思い出話に花咲かせることがよくある。「宮古や釜石あたりからものを運んだ時代のこととか、『そのあたりでちょっと釣りをしたんだよね』といった話とか。当時厳しく教えられたことは今すごく役に立ってますと言ってくれてね。いまでも年に一回くらいは遊びに来てくれる方がいるんですよ。ありがたいことです。」
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